世界と自分が地続きになるとき
今ふと浮かんだ言葉を書いておこう。
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自分を自分たらしめようとする動きすらも客体化できたとき、自分自身と世界に対する認知が変わる。
世界と自分が地続きになる。
包含できる範囲が、一気に広がるのだ。
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私たちはたぶん、思っている以上に長いあいだ、「私」というものをつくり続けている。
私はこういう人間である。
これは好きで、これは嫌い。
こういう価値観を持ち、こういう世界を生きたい。
これは私らしい。
これは私らしくない。
それらは、自分を知るために必要だったものでもある。
他者との違いを知り、自分の輪郭をつくり、自分の人生を自分で選ぶ。
それまで外側に預けていた判断を、自分のところへ取り戻していく。
その過程で、「私は何者なのか」は、とても大切な問いになる。
けれど、あるところまで来ると、その「私を私たらしめようとしている動き」そのものが見えるようになるときがくる。
自分らしくあろうとしている私。
自分の価値観を守ろうとしている私。
世界の中で自分の位置を確かめようとしている私。
自分という存在を、ひとつのまとまりとして維持しようとしている動き。
それまで私は、その動きそのものを「私」だと思っていた。
けれど、それすらも見えるものになる。
見えているということは、少なくとも、それだけが私ではない、とわかっている、ということでもある。
この変化は、とても静かで、そしてこれまでにはない葛藤も生み出す。
これまでの自分が築き上げてきた外側と内側が大きく崩れることもある。
それでも、その葛藤の中にあるのは、思考が握りしめる概念と、今ここにある身体のズレを細やかに一致させていく、静謐な時間でもある。
自分がなくなるわけでもない。
価値観がなくなるわけでも、人格がなくなるわけでもない。
むしろ、それらはそのままそこにある。
ただ、それを必死に「私」として保持し続ける必要がなくなっていく。
ふと気がつくと、世界との距離がこれまでとは違ったものになっていることに気づく。
これまで「自分ではない」として外側に置いていたもの、
たとえば
他者の価値観や、自分とは異なる生き方、理解できない反応。
社会、自然。
自分の身体の中に起きる、自分では制御できない動き。
こうしたものが、自分と切り離されたものとして存在している感じが薄くなる。
自分と他者の違いを保ったまま、それらすべてが同じ世界の中で起きていることが、以前よりもそのまま見えるようになる。
自分を守るために世界を切り分けなくてよくなる、と言った方が近いのかもしれない。
認知ではなく、身体が、健全な境界線を引けるようになる。
それにより、自我によって明確にわけられていた、
私と、私ではないもの。
正しいものと、間違っているもの。
理解できるものと、理解できないもの。
受け入れられるものと、排除したいもの。
そうして細かく区切っていた境界のいくつかが、少しずつ透過していく。
すると、世界が広がる。
言葉を正確にするなら、これまで自分が世界として認識できていた範囲が、広がる感じだ。
自分を自分たらしめるために外側へ押し出していたものまで、自分の認識の中に置いておけるようになる。
それは理解できなくてもいいし、
同意しなくてもいいし、
自分のものにしなくてもいい。
それでも、そこに存在することを許せる。
ただ、存在させておくことができる。
包含するというのは、すべてを受け入れて一つになることではないのだと思う。
違うものを、違うまま置いておけること。
わからないものを、わからないまま視野の中に残しておけること。
そして、自分自身についてさえ、
「私はこういう人間だ」
と固定しなくてよくなること。
そこまで含めて、世界の中にいる。
そうなったとき、自分と世界の関係そのものが変わってくる。
自分という小さな点が、外側にある巨大な世界と向き合っているのではなく、
この身体も、この思考も、この人格も、
目の前の人も、木々も、社会も、
理解できることも、理解できないことも、
すべてが同じひとつの場の中に現れているように感じられる。
世界と自分が、地続きになる。
それは、「私」が消えた世界ではない。
私を私たらしめようとしなくても、私がここにいる世界だ。
そしてもしかすると、そのとき初めて、
自分という輪郭を守るためではなく、
もっと広い世界を、そのまま見ることができるのかもしれない。
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