世界と調和することー世界を変える向きからの変化
ここ2年ほどのあいだに私がしてきたことは、表向きに見たら「何もしない」ことだった。
それは単にがむしゃらな行動を減らすことだけでなく、本当に自分の喜ぶことだけを丁寧に選び取ることを意味していた。
と同時に、内側に起こる自我の抵抗を徹底的に見ては、それを少しずつ外していく。
それはそれは、繊細な時間だった。
そんななか、見えてきたことがある。
自我の抵抗には、少なくとも二つの層があるのだ。
ひとつは、思考・意味づけ・自己像・未来操作として現れる、認知の自我。
もうひとつは、思考より前に身体で起きる、神経系の自我。
神経系は、認知よりもっと手前にある。
私の感覚では、生命に最も近いところで世界と接している層。
人に合わせたり、
空気を読んだり、
先回りしたり、
相手を上に置いたり、
判断軸を外に預けたり、
場を監視したりする。
こうした動きは、どんな人でも思考になる前にすでに起きている。
神経系の動きが読める身体になって初めて、人は想像以上に神経をすり減らして生きているのだとわかった。
しかも、その消耗の多くは、「頑張っている」という自覚すらないところで起きている。
自覚のないところに使われるエネルギーは膨大だった。
幼い頃に、周りの大人たちの空気や機嫌を読むことで、生きてきた人ならなおさら、その傾向が強いかもしれない。
その神経系レベルで起きているエネルギー漏れに気づかず走ってきた。
だから、そこで起きていることを認知でカバーするしかなくて、こう考えればいい、とか、こう受け取ればいいとか、自分が変わることで、とか、とにかくそんなふうに認知の自我が、上から世界を管理していた。
認知の自我が強かったというより、その手前で起きている身体の動きを感知できなかったから、認知が管理者になるしかなかったのだと思う。
神経系の動きまで感知できるようになると、
今、外に主体を預けた。
今、縮んだ。
今、相手を読んでいる。
そんなふうに、その瞬間に身体に起きていることがわかるようになる。
そして、その動きを修正するのではなく、その動きごと包含できる位置がある。
反応はあっていい。
なにも変える必要はない。
そのままでいい。
こうした受容と共に、在る。
そこに立つと、神経系まで含めて自分の内側に戻ってくる。
この感覚が、自分と身体が繋がった状態で、それが内側の自分と繋がる、の言葉の意味だと知った。
この2年の変化は、少しずつではあったけれど、生きる前提そのものが大きく変わる時間だった。
以前の前提には、変わることが「善」だった。
世界には何かが足りなくて、私もまだ足りなくて、人は変わる必要があり、世界はよりよくされる必要がある。
そんな欠乏の前提があった。
この前提に立っているときは、世界を変えたい。 人を変えたい。 何か大きなことをしたい。 という欲求も自然に生まれ、それはそれで自我の美しさだな、と思う。
けれど同時に、それは現実を「ない」ものとしている、不足を前提にした動きだったなと、今は思う。
その前提が大きく変わるとき、世界は静かに反転していった。
私はすでにある。
あなたもすでにある。
人は何かを外から足されて完成する存在ではなく、すでにあるものを思い出していく存在。
そう見えるようになると、世界に対する向きも変わる。
足りない世界に向かって、外から働きかける必要が薄くなる。
誰かを変える必要も薄くなる。
世界は、管理する対象ではなくなる。
目の前に現れる世界は、「表れ」になるのだ。
自分の生命にあるものが、身体を通って、選択、言葉、関係、仕事、暮らしとして現れていく。
現実創造という言葉を使うなら、外側を望む形に操作することではなくて、内側の抵抗が減るにつれて、内と外の不一致が減り、結果として、生命本来の望みがそのまま現れることに近い。
抽象的な言葉を使えば、生命にあるものは「愛」であり、「自由」であると思う。
誰もジャッジせず、誰も排除せず、すべてを包含する愛。
そしてどんな価値観にも、何者にも、世界にも縛られない自由。
それだけで終わるとスピリチュアルな言葉遊びみたいになるけど、実際にそれが現れる場所は、とても具体的だ。
それは、家族との日常であり、 一人で静かにいる時間であり、心が動いたものであり、やりたいこと、そしてやりたくないことをしないこと。
毎瞬毎秒、自分から離れずにいること。
こうした場所から生まれた「やりたいこと」は、思っていたより派手ではなくて、最初はとても静かだ。
世界を変えることではなく、自分の生命にあるものを、そのまま生きる、ということをした結果、完全な内側と外側の調和がうまれ、そこに自分の内側が、そのまま現れる世界が広がる。
だから、私たちは内側を見て、それを世界に映すのだ。
内側に広がる世界の美しさを、目の前のスクリーンに映し出すように。
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