「事実と解釈を分ける」のあいだにあるもの|身体は今ここを生きている
コーチングをやっていた頃、「事実と解釈を分ける」ということを何度も教わった。
何が実際に起きたことなのか。
そこに、自分が何を付け加えているのか。
たとえば、誰かにメッセージを送ったけれど、返信が来なくて、妙に落ち着かない気持ちになるとき。
「返信が来ていない」というのは、外側で実際に起きていること。
そこからもし、「嫌われたのかもしれない」と考えたなら、それは出来事そのものではなく、自分の中で生まれた解釈かもしれない。
事実と解釈を分けることで、自分がどんな意味づけをしているのかに気づく。
実際に起きた出来事と、自分の内側の葛藤がごちゃ混ぜになっていた時、私はこの視点に何度も助けられてきた。
今、トランスパーソナルな在り方の学びの中にいる。
そのなかで、「意味づけと体験の境目に気づく」という言葉に出会った。
最初は、コーチングでやってきたこととかなり近いように思えた。
けれど、たぶん、似ているようで違う。
「事実と解釈を分ける」と、「意味づけと体験の境目に気づく」は、どこまで重なり、どこから重ならないのだろう。
そんな問いが湧いて、しばらく向き合っていると、ひとつのことが見えてきた。
認知がごちゃ混ぜになっている時は、返信がない=嫌われた、と直結していたことが、自己理解を深めるうちに、切り分けられるようになることがある。
ああ、実際には起きていないことに、過剰な意味付けをしちゃっていたわ、と気づく。
それだけでも、世界の見え方はずいぶん変わる。
けれど、「事実」と「解釈」のあいだには、その人の内側で実際に起きている”体験”がある。
たとえば先ほどの返信の例で見てみたい。
たとえば、 返信が来ていない事実を目にした時。
もしかしたら少し、胸が縮むかもしれない。
身体がキュッと緊張したかもしれない。
寂しさが立ち上がったかもしれないし、
言語化できない怖さが出てきたかもしれない。
「嫌われたのかもしれない」 という意味づけが生まれる前に、そうした身体的な体験が生まれていることがある。
このとき、身体の反応や身体の声を聴かないまま、認知の書き換えさえできれば、それですべて解決となるだろうか。
実際は、それだけでは解決しきれない時がある、というのがこれまでの自分自身と、セッションを見てきた私の実感だ。
たとえば認知のゆがみを指摘され、
「ああ、間違って解釈をはさんでいたわ。以後気をつけよう」
と思うことは、身体の反応すらコントロールしようとする、さらなる認知のコントロールを強める動きとなりはしないだろうか。
あまりに事実と解釈が自動反応で直結していて、その人の中で「当たり前」の認識になっている時は、身体の反応そのものに気づくことが難しいこともある。
身体の反応は、思考優位に生きていることがデフォルト化しているほど気づきにくい。
感情の抑制が強ければ、それを感じないようにする防衛の働きが先に動いていることもある。
でも実際は、「返信が来ていない」と「嫌われた」のあいだには、実際にはいくつものことが起きている。
胸の縮み。
身体のすくみ。
頭がギュッと締まる感じ。
胸にうっすら寂しさを感じたこと。
もしかしたら怖さを感じたかもしれないこと。
それらは、「嫌われた」という意味づけとは違う。
その手前にある、内側で実際に起きた身体の体験だ。
「事実と解釈を分ける」を、私はこれまで主に認知を扱うものとして理解してきた。
そこでは、信念や思い込み、過去の経験によって出来事をどう解釈しているかを見る。
でも人は、認知だけで動いているのではない。
身体があり、神経系の反応がある。
もしかしたら意味づけは、そこから立ち上がっているかもしれない。
人の身体の中では、認知ですべて把握できるほど単純ではなく、もっと複雑なことが起きている。
何かを考えたから身体が反応することもあれば、身体が先に反応し、その体験に意味を与えるように認知が動き始めることもある。
認知だけを見ていると、その人が出来事をどう考えているかは見える。
でも、その人が今ここで何を経験しているかは、見えにくくなることがある。
認知だけを扱っていると、人は簡単に「今ここ」を離れる。
身体を見ることは、自分が今ここで何を経験しているのかを見ることでもある。
怖かったことと、 嫌われていることは、 同じではない。
怖さは、私の中で起きた体験で、「だから私は嫌われている」は、そこから立ち上がった意味づけかもしれない。
今ここの体験、身体の反応を知ることで、自分の内側に起きている葛藤をなかったことにせず、そこにあるものに光を当てることができる。
自分の内側にある身体の反応や言語化されない感情。
それと嫌われているとは限らない、という事実。
この二つは、矛盾することなく、同時に持つことができる。
事実と解釈のあいだに、人の体験がある。
そしてその体験には、 身体があり、 神経系があり、 今ここがある。
意味づけと体験のはざまに気づくことは、私たちをもっと自由にするのだ。
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