私たちはなぜ、上には縮み、下には大きくなるのか ―力の差を、人間の価値の差に変えてしまう構造
私たちは、自分よりも強い立場にいる人を前にすると、自分の感覚より相手の言葉を優先したり、本当は納得していないのにうなずいたり、違和感を伝えることをためらったりすることがあります。
反対に、自分のほうが多くの知識や経験、権限を持っているときには、相手の言葉を最後まで聞く前に理解したつもりになったり、相手のためだと思って答えを示したり、相手が自分で考える時間を待てなくなったりすることがあります。
強い相手の前では縮み、弱い相手の前では大きくなる。
こうした両方向の動きは、特別な人だけに起こるものではありません。
人間には、相手の力や地位、支配性を素早く読み取り、その関係の中での自分の位置に応じて、行動を調整する仕組みがあるからです。
問題は、力の差を知覚することそのものではありません。
その差を、私たちが「何の差」として受け取るかです。
ここでいう「力」とは、人としての強さや優秀さのことではありません。
決定権や評価する立場、知識や経験、肩書き、経済力、発言力など、その関係の中で相手に与える影響の大きさを指しています。
力はその人に固定されたものではなく、場や関係によって変わります。
ある場では大きな影響力を持つ人も、別の場では評価される側に立つことがあります。
大切なのは、力の差と、人間としての価値の差は同じではない、ということ。
それを心の片隅において、読み進めてもらえたら、と思います。
人は関係の中で、自分の位置を読んでいる
人は誰かと出会うと、意識するより先に、その場の力関係を読み取っています。
誰が決定権を持っているのか。
誰が評価する側なのか。
誰が多くの知識や経験を持っているのか。
誰の言葉が、その場に大きな影響を与えるのか。
たとえば
講師と受講者。
親と子ども。
上司と部下。
コーチとクライアント。
こうした関係には、役割、責任、知識、権限、影響力の違いがあります。
低い位置に置かれたと感じれば、人は評価や危険を監視し、発言を控えたり、相手に合わせたりしやすくなります。
高い位置に置かれたと感じれば、自分の視点を基準にしやすくなり、相手の視点や感覚への注意が薄れることがあります。
このように力の非対称性を知覚すること自体は、人間の社会的な構造として、私たちに自然に備わった働きなのでしょう。
しかし、上下を知覚することと、その上下を利用して、自分の価値や安全を確保することは別のものです。
この二つはしばしば混同され、その混同が、私たちの関係に生きづらさを生み出します。
力の差が、人間としての価値の差へ変換される
本来、
「この人には、この場で決定する権限がある」
「この人は、この領域について多くの知識を持っている」 というのは、
役割や機能の違いです。
けれども、その違いは容易に、
「この人の方が上である」
「私はこの人より下である」
「上の人の方が正しい」
「下にいる人は従うものだ」 という、
人間そのものの序列へと変換されます。
それは、その場に流れる暗黙の前提として起こることもあれば、自分の内側の動きとして起こることもあります。
意識していなくても、力の差から価値の差への変換は、いとも簡単に起こります。
すると、自分が下に置かれたときは、萎縮する、従う、迎合する、あるいは強く反発する、といった動きが生じるかもしれません。
自分が上に置かれたときは、説明する、決めつける、相手の判断を代わりに引き受ける、あるいは尊大になる、といった動きが起こるかもしれません。
方向は逆でも、どちらも同じ構造から生まれています。
それは、自分の存在価値や安全を、関係の中の位置によって確保しようとする動きです。
力を「優位性」と捉えるか、「責任」と捉えるか
力を持ったときの振る舞いは、その力を自分がどのように意味づけているかによって変わります。
力を「自分が獲得した優位性」と捉えるか、「他者のために託された責任」と捉えるか。
この認識の違いによって、行動は大きく変わります。
力を、自分の能力や価値の証明として受け取れば、その力によって相手を動かし、従わせ、自分の正しさを確認したくなるかもしれません。
一方で、力を託された責任として受け取るなら、その力は相手の自由や安全、主体性を守るために使われます。
親であること。
教える立場にあること。
誰かを支援すること。
こうした役割には、現実に影響力が伴います。
必要なのは、その影響力を持たないふりをすることでも、力を避け続けることでもありません。
自分にどのような力があり、その力が相手にどのような影響を与えるのかを認識しながら、その向きを意識し続けること。
持っている力を、人間としての優位性に変換しないこと。
それもまた、人としての成熟であり、知性なのだと思います。
力の非対称性の中で、どうすれば人はフラットでいられるのか
私は、人とのあいだに上下を置き、その上下関係を利用して場をコントロールしようとする動きに、身体が強く反応します。
かつては、権威、肩書き、知識、経験、年齢などの差そのものに反応しているのかと思っていました。
けれど実際には、力の差が人間としての価値の差へ変換され、その序列を利用して相手の主体性を狭めようとする構造に、身体が反応していたのだと思います。
それは過去、力の非対称性の中で主体性を奪われた経験から、この構造をより早く強く察知する側面もあるのでしょう。
今はもう、たとえ相手に自覚がなかったとしても、力の差を利用して相手を従わせようとしたり、自分の正しさや価値を確保しようとしたりする動きには、身体が明確にNOを出します。
けれど、このことを見つめる中で、私は「フラットである」ということの意味を、あらためて考えるようになりました。
フラットさとは、力の非対称性が見えない状態ではありません。
力と、人間としての価値を、きちんと分離しておける状態をいうのだと思います。
それはたとえば、自分が弱い側に置かれても、自分の価値を失わないこと。
講師や専門家の言葉に違和感を覚えたとき、相手の知識を尊重しながらも、自分の感覚を明け渡さない。
その場ですぐに相手が正しい、自分が間違っていると決めず、判断を保留する。
自分の中に違和感があれば、その場ですぐに伝えることができる。
こんなふうに、自分の内側で起きていることを最終的に確かめられるのは、自分自身です。
同時に、支援者がこうした場の安全を保証することは、力の差がある場でこそ、大きな意味を持ちます。
そしてたとえば、自分が強い側に置かれても、相手の価値を小さくしないこと。
支援者側が相手の状況がよく見えたと感じても、それを相手の答えとして確定しない。
相手の内側で起きていることに、安心して耳を傾けられる場をホールドする。
そのような場があれば、相手は自分の内側で起きていることを、自分の言葉で語りやすくなります。
そしてたとえば、親として子どもの安全に関わる判断を引き受けるときも、同じです。
親が決定する必要のある場面でも、子どもの気持ちや考えまで決めたことにはしない。
決定する力を持っていることと、相手の内面を決める権利があることは、同じではない、と親の立場にあるほうが理解していること。
役割や責任には差があっても、人間としての価値には上下を置かないこと。
自分が下にいるときには、相手の力を、自分の価値の低さへ変換しない。
自分が上にいるときには、自分の力を、相手の価値の低さへ変換しない。
そして、手にしている力を、自分が獲得した優位性ではなく、他者の自由と主体性を守るために託された責任として扱うこと。
力の差が存在する世界の中でフラットに生きるとは、そうした両方向の動きを、関係の中で調律し続けることなのだと思います。
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