暮らしのなかに見る宇宙、Beingの営み
夏休みに入り、子どもたちと過ごす時間が増えている。
汗をかいて帰ってくる子どもたち。
シンクには気づけば洗い物がたまり、洗濯物も次から次へと増えていく。
そんな何気ない毎日を過ごしながら、ふと気がついた。
私は、この家族との暮らしのなかに息づく美しさに、心を動かされるのだ、と。
以前の私なら、どこかで「日常」と「精神性」を分けていたように思う。
自然の中で静かに瞑想する時間や、自分を整える時間。
そういうものが「本来の自分」に近づく時間であり、暮らしは現実を回すための時間。
両者は交わるようで交わらない、別々に存在するもの、
どこかにそんな感覚があった気がする。
けれど最近、その感覚が静かに変わってきている。
それは、少し前に、八ヶ岳の大自然に暮らすお宅でのリトリートに参加したことが大きい。
それは、標高1800mで営まれる、豊かで静かな暮らしを、肌で感じる時間だった。
彼女たちは自然と深く共鳴し、とても美しく洗練されており、そして静謐だった。
すでにBeingが身体に深く根付き、神経系がとても安定した姿を前にすると、私の内側もまた、静かになる。
呼吸が深くなり、私の神経系も少しずつほどけていく。
まるで身体そのものが調律されていくようだった。
私自身の神経系の許容も、自然と上下左右に広がっていく。
私の自我たちはすっかり安心して、防衛の役割を明け渡す。
そうして普段は私自身の奥にあるピュアな生命は、何度も喜びに震えた。
私の生命は、それがそのまま世界に現れることに、まだ少し戸惑いを感じているよう。
その不器用さも愛おしい。
同時に、私の中にまだなにか、「俗っぽいもの」が残っている気がした。
今の私の暮らしは、ここまで静けさに満ちてはいない。
騒がしく、家族の営みがあり、隠しようのない生活感がある。
はたしてこれは、まだ手放せていない自我なのだろうか。
そんな問いが浮かんだ。
でも今日、ふと思う。
私は、汗をかいて帰ってくる子どもたちの中に、生命の力強さを見る。
シンクにたまる洗い物や、山になる洗濯物に、命の営みを見る。
そのどれもが、死ぬほど愛おしく、
その愛おしさに、私の中の生命が湧きたつ。
以前なら、これはただの生活だった。
今は違う。
そうか。
私は家族を愛し、暮らしを愛している。
生活の匂いも、笑い声も、揺れる心も愛している。
それでいいのかもしれない。
八ヶ岳の力強く美しい自然の中には、深く共鳴し、震えるような感動があった。
そしてそれと同じくらい、日常のざわめきの中にも、心震える感動がある。
私にとってBeingとは、日常を離れてたどり着く場所ではなかった。
それは、日常息づく、生の営みそのものだった。
ここにBeingという一本の幹がある。
私のBeing。
その中に、
家族があり、
暮らしがあり、
セッションがあり、
発信があり、
瞑想があり、
運動があり、
自然との共鳴がある。
どれかを選ぶのではなく、どれもがBeingの表現だ。
暮らしと宇宙を分けない。
朝ごはんを作ること。
家族と笑うこと。
誰かと静かに向き合うこと。
木々を眺めながら深呼吸すること。
そのすべてが、ひとつの生命の営みなのだと思う。
私がここまで育んできたBeingの形が、今ここでそっと輪郭をもって現れたように感じた。
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