世代間連鎖を止める、役割を下ろして見えるもの
「私には世代間連鎖を止める使命がある」 と感じていた時がある。
親の怒りや理不尽さの中にある未熟さに気づき、
それと同じことはしないと心に誓い、
それでも現れる理由のない苛立ちに翻弄され、
その奥にある悲しみに触れたり、
それでも子供を怒鳴っては反省したり、
それはそれは努力した。
そのかたわらで
自分を内からも外からも磨くことを惜しまず、
社会からの評価もそれなりに得る努力もし、
こんな私は偉いと自分を褒めることも怠らず、
それはそれは努力した。
「世代間の負の連鎖は、私が止めるのだ」
と心に誓い、
物心共に良い影響を与えられる親であろうとし、
レゴ好きだった子供たちに
レゴランドの年パス買って
毎週のように通っていた頃もある。
その頃は、
家中にレゴ作品が溢れていた。
私は、その光景を
とてもほほえましく思っていた。
しかし、作品が家中
あらゆるところに場所を取り、
レゴの細かな溝に埃がかかるようになった頃、
私はその光景に
だんだんイライラするようになっていた。
片づけてもいい?と聞くと、
イヤだという息子。
そうかそうかと聞くも、
心になにか未消化の黒いものがうごめく。
それでも子どもたちの
創造の芽を摘んではならないと
その感情をコントロールしていた。
しかしある時、
感情がコントロールできなくなった私は
本人が一生懸命に作ったレゴの作品を
彼の目の前で床に叩きつけ、
壊してしまったことがあった。
大切にしていた作品を
衝動的に床にたたきつける母親の姿、
どれだけ恐ろしい光景だっただろうか。
それが息子にどんなトラウマを与えるか、
それが人生の選択や行動にどう影響を与えるか。
心理学を学び理解してきたからこそ
想像し、今も強く胸が痛む。
しかし、起こしたことを
なかったことには、
もう、できない。
親を反面教師にしながら
抜かりなく努力したつもりでも
一瞬の隙に張りつめていたものが
溢れる瞬間があった。
こんなに努力をしてきたのに、
それでも、 私は
”そうはしない”母親にはなれなかったのです。
それは、
少しでも気を抜いたら
崩れ落ちそうな身体の上に
努力を積み重ねていた、ということが、
今ならわかる。
使命や役割を背負う身体は
常に緊張をしている。
「世代間連鎖をとめる」ということを
使命のように大切に抱えていた私の身体は
常に緊張をし続けていた。
それも、
自らに課していた”役割”だった、
と今は思う。
何年後かに、
あの時のできごとを息子に謝罪したことがある。
いいともよくないとも
あいまいな返事だったと思う。
それはそうだろう。
彼がそこで取り込んでしまった身体の緊張、
あるいはトラウマの影響を感じるのは
もっともっと大人になってからかもしれない。
そしてその時に、
親である私がしゃしゃり出ていき
彼の神経系の緊張を”とってあげる”ことは、
もう、できない。
このことに気がついたとき、
世代間連鎖を止める役割を
必死に背負ってきた私の自我を、
すっぱりと解放してやることにした。
私が子供に渡したいのは
こうあるべき、どうあるべきという
身体の緊張よりも、
「このままのわたしでいいんだ」 という、
存在からの安心感だな、と今は思う。
あの頃の私は、
一生懸命に身体を緊張させながら 頑張っていた。
その時間はとても有意義だったし、
私自身と、親と、子ども、
三世代にまたがる痛みに
真正面から向き合った時間だったと、
胸を張って言える。
でも今、
使命感を背負って頑張った先、
今こうして力を抜いてゆるむことで
子どもに渡せるものもとても大きい、と感じる。
使命を背負うことも、
その先でそこから解放されることも、
どちらも尊い。
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