「わかっていること」と「生きられること」のあいだで
自分らしく生きたい、生きづらさを解消したい、と感じてから、長い時間をかけて自分の内側を見てきた、という人は多い。
でも、頭で「わかっている」ことと、それを実際に「生きられる」ことのあいだには、深い深い海峡がある。
その隔たりは、案外知られていない。
自分は何を怖れているのか。
どんな思い込みを持っているのか。
自分がなぜこんなふうに反応するのか。
どこまでが自分の責任で、どこからが相手の領域なのか。
知識を増やし、自分を大切にすることも知っている。
他者の期待に応え続けなくていいことも、自分の感覚を信頼していいことも、頭ではもうよくわかっている。
心理学を学び、コーチングを受け、自分自身を知った。
ジャーナリングやアファメーションで、内側を整えてもきた。
それでも、身体は想定とは違う動きをすることがある。
誰かと同じ空間にいるだけで、意識がその人のほうに向かっていく。
相手がどう感じているか。
何を必要としているか。
私はどう振る舞えばいいか。
考えているつもりすらないのに、身体の注意がいつの間にか自分の外へ出ていること。
そうして、呼吸が浅くなったり、身体の中心が少し遠くなったりする。
あれ?さんざん整えてきたのになぜ?
なんでこんなふうにざわつくの?
以前の私は、こうした反応も「理解して」コントロールするものだと思っていた。
原因を探し当てて、捉え方を変えて。
それでより良い自分になれればいい。
でもそれは、自分の身体、神経系の反応さえも、頭でコントロールしようとしていたんだな、と今なら思う。
人が本当に変わるときは、「理解できること」の外にその答えがある。
もう十分にわかっている、と思うようになったときこそ、見えていないものに気づきにくい。
わかる、と、できる、は違うという。
境界線という言葉を理解することと、 境界線のある身体で誰かと一緒にいることは、 同じではない。
セルフラブの考えを持つことと、 実際に自分の感覚から離れずに日常を生きることも、 同じではない。
私たちはたぶん、たくさんのことを「知る」ことができる。
自分を理解することもできる。
でも、その理解が身体へ降りてきて、日々の何気ない瞬間の反応まで少しずつ変わっていくには、また別の「身体の時間」が必要だったりする。
わかった瞬間に、すべてが変わるわけではない。
わかったことを携えながら、 古い反応をする身体とも一緒に暮らしていく。
気づいて、 感じて、 また世界の中へ戻っていく。
そして誰かと関わり、暮らし、時には揺れながら、 いつの間にか、以前は「知識」だったものが、 自分の生き方そのものになっている。
そんな移行期の時間を、私はとても大切に思う。
「わかっていること」と、 実際に「生きられること」のあいだ。
そのあいだにも、思っていたよりずっと広い世界があった。
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